「人的資本」とは、労働者が身につけた知識や能力などのことを指します。これは知識や能力のことを、教育や訓練、経験などによって個人に蓄積される「資本」と見なす考え方に基づきます。
例えば、企業が従業員に業務スキル向上に関する研修を受けさせることは「企業による人的資本への投資」にあたります。
労働者が持つ人的資本が充実すればするほど、企業にとっては労働生産性の向上が期待でき、労働者にとっては賃金の上昇などが見込めることになります。
日本国内においては、労働生産人口の減少による人手不足や、環境問題、社会課題、企業統治に積極的な企業を重視する「ESG投資」、また、多様性・公平性・包括性を企業理念に取り入れる「DE&I」の広まりから、この「人的資本」が近年注目されています。
労働者を知識や能力、ポテンシャルを含めて「資本」と捉え、教育などの機会によってそれぞれの持てる価値を最大限に引き出すこと。それによって、中長期的な企業価値の向上を目指す経営手法は「人的資本経営」と呼ばれ、HR分野のトレンドワードにもなっています。
この傾向には、国が人的資本経営への取り組みを促しているという背景もあります。2022年8月、内閣官房より人材投資に関わる経営項目の開示ガイドライン「人的資本可視化指針」(上場企業対象)が発表されました。また、2023年1月の内閣府令改正により、有価証券報告書を発行する企業に対して、人的資本に関する情報と、多様性に関する情報の記載が義務化されています。
情報開示の対象となる企業は、金融商品取引法第24条における「有価証券報告書」を発行する大手企業、約4,000社とされています。このうち、2023年3月期決算を迎える企業から、下記の人的資本に関する情報と、多様性に関する情報を有価証券報告書に掲載する義務、いわゆる法定開示が適用されています。
人的資本に関する情報 |
多様性に関する情報 |
人材育成方針 |
男女間賃金格差 |
社内環境整備方針 |
女性管理職比率 |
男性育児休業取得率 |
一方、先述の「人的資本可視化指針」(上場企業対象)で示された7分野19項目の開示項目(下図)は、法によって開示が定められているわけではなく、任意に開示されることが望ましいとされています。ただし、開示しない企業に対しては投資家の厳しい評価が予想されますし、逆にアピールの場と捉えて戦略的かつ積極的に開示に取り組めば、競合他社との差別化にもつながると見られています。
開示事項の例 | 育成 | リーダーシップ |
育成 | ||
スキル/経験 | ||
エンゲージメント | ||
流動性 | 採用 | |
維持 | ||
サクセッション | ||
ダイバーシティ | ダイバーシティ | |
非差別 | ||
育児休業 | ||
健康・安全 | 精神的健康 | |
身体的健康 | ||
安全 | ||
労働慣行 | 児童労働/強制労働 | |
賃金の公正性 | ||
福利厚生 | ||
組合との関係 | ||
コンプライアンス/倫理 |
「人的資本可視化指針」(内閣官房)を加工して作成
「人的資本可視化指針」では、具体的な開示事項についてはあくまで「例」を示すに留まり、実際の開示事項は指針に沿って各企業で検討することが効果的かつ効率的としています。その上で、具体的な開示事項を次の2つのポイントに分けて説明しています。
1つめのポイントは「自社固有の戦略やビジネスモデルに沿った独自性のある取組・指標・目標」と「自社にとって重要な事項について、国内外の投資家からの評価も視野に入れつつ、他社と比較可能な形で戦略的に表現・訴求できる事項」のバランスに留意することとされています。
いわば「比べようのない個性の部分と、比べて評価できる標準的な部分」、両方の情報がバランスよく開示されていることが重要だというわけです。
もう1つのポイントは、投資家からの評価を得ることを企図する「価値向上」に関する開示と、投資家からのリスクアセスメントニーズに応え、ネガティブな評価を回避する観点から必要な「リスクマネジメント」に関する開示があることとされています。いわゆる「攻・守」の観点とも言えますが、1つの事項が必ずどちらかに属するわけではなく、下図のように1つの事項に両方の観点が含まれるケースも少なくないことが特徴です。
ここでは開示事項を各企業で検討するにあたって、参考になりそうな事例を紹介します。ちなみに紹介する事例は人的資本や多様性に関する開示事項からさらにその一部をピックアップしたものであり、実際にはより詳細かつ多岐にわたる内容が開示されています。
小売業のグループ企業であるA社では、多様性の推進に関して「女性の上位職志向」や「男性の育休取得率100%維持」、「家庭における男性の家事・育児の分担割合」などといった独自のKPIを設定し開示。その一方で、離職率や育休取得率といった他社と比較できる定量的な情報も開示しています。
事務機器メーカーB社では、正社員女性比率・女性管理職比率・女性上級管理職比率をそれぞれグローバル(国内外全グループ会社)、日本(親会社を含む日本国内グループ会社)、親会社に分けて記載。また化学メーカーC社では、女性役員数、非日本人役員数を記載するとともに、女性管理職数等の推移と目標を国内外のエリア別で記載しています。
地方金融機関Dでは、「女性管理職比率」や「女性マネジメント職候補比率」といった女性活躍に関する項目について、実績に加え短期・長期の目標を併記。電子部品メーカーEでは、人権と多様性の尊重などESGの各項目における重点課題の目標を中期・長期に分けて記載し、また詳細の参照先としてWebサイト上の掲載箇所を示しています。
人的資本の情報開示について「義務化されるから対応しなければ」、「他社がやるからうちもある程度対応しないと」といった消極的な意識の方もいるかもしれません。しかし、自社の人材戦略を明らかにすることで、株主へのアピールやブランディング、優秀な人材の採用につながるなど、情報開示には多くのメリットもあります。
開示にあたり検討しなければならない内容はかなり多くなりますが、真摯に取り組むほど得られるものは大きいとも言えます。ランスタッドのように、人材マネジメントに長けた外部パートナーの手を借りることも検討しながら、戦略性の高い情報開示を目指しましょう。